回顧の滝抱返り渓谷仙北市
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回顧(みかえり)の滝まで抱き返り渓谷遊歩道が整備されています。
回顧の滝抱返り渓谷 2011/07/12



回顧の滝抱返り渓谷 2011/07/12



抱返神社 2011/07/12



玉川先賢彰徳碑



抱返り渓谷コースガイド



回顧の滝説明看板



抱返神社の由来説明看板



玉川先賢彰徳碑説明看板

抱返り渓谷コースガイドから引用

抱返り渓谷
奇岩怪石を縫うように流れ、コバルトブルーの水の色と原生林との調和が見事です。その雄大な景観は昔から東北の耶馬溪と称されています

誓願寺
両岸の岸壁が迫り谷間になっています。新緑のころにはその断崖に岩つつじが咲き誇ります。

回顧の滝
渓谷一の名勝です。特に新緑シーズンが見ごろで、水しぶきを上げる様に何度も振り返って見たくなることから名が付きました。

飯村少年殉難の碑
昭和10年、誤って崖から転落した妹を救おうとして命を落とした飯村秀二少年の碑です。

百尋の滝
勢いよく流れ落ちる滝で虹を作るときもあります。滝の裏側をのぞけることから裏見の滝とも言われています


回顧の滝 (説明看板から引用)
抱返り渓谷随一を誇る名所として多くの人々に親しまれています。その人気の一つは四季折々に表情を変え、正に女性が着物を着替える様を見るようなところと、木々の合間から落下する飛瀑が荘厳と雅麗な姿で白い絹布を懸した様にも見えるところなど、名の由来からもその美しさを、また振りかえり見たくなる滝であります。


抱返神社の由来 (説明看板から引用)
康平五年(1062.9.7)前九年の役で源義家が盛岡厨川(くりやがわ)の柵の安部貞任を攻める為此の地より玉川の川筋を進もうとし川の流れの静かなる事を願って持仏を祀って祈願した。
祈願を済した義家は再び持仏を懐にして厨川の柵を攻めたこの戦いで義家は勝利を治めここまで無事に帰ることが出来たこれを喜んで義家はこれも仏のお陰と改めて堂宇を建て懐の持仏を祀ったのが懐返神社の始まりとされつまり祈願した持仏を懐に入れお守りとして持って行き再び還って来たから「懐き還る」「懐還神社」と言い伝えられています
尚明治維新後に抱返神社と改書された元禄七部絵図では村の鎮守は水尺(みずしやく)明神として図示されているが現祀神は水波能○神を祭っていますまた往古より龍神・水分神・養蚕の守護神として遠近各地より崇敬を仰いで居ます
康平五年(1062)に建てられたと言う堂宇もその後幾度か立て替えられた様で延宝三年九月十六日(1676)社殿および長床をたてて若松村鎮守とした  敬白


玉川先賢彰徳碑 (説明看板から引用)
玉川先賢彰徳碑について
 仙北平野を流れる玉川の源は、八幡平の焼山付近になり、強い塩酸泉が湧き出しています。そのために、魚は住まず、農作物の収量は少なく、治水工事もむずかしいことから、毒水と呼ばれ、流域の住民を悩ませました。
 江戸時代の天保・嘉永・安政年間に、角館の田口幸右衛門宗俊・宗辰父子、生保内の平鹿藤五郎は、私財を投じて、湧き出る泉を枯れさせる工夫や、堰を造って熱湯の流れを変えたり、有毒なガスが水に溶け込まないようにするなど、たいへん困難な工事にあたりました。
 やがて、玉川には魚が繁殖しだし、田地の収穫も増えるようになり、人びとに感謝されました。
 その後、天災や戊辰の役などがあり、除毒の施設が荒廃しました。慶応年間に○見内の小松市右衛門が、同士とともに、再興を図りましたが、残念ながら目的を達することができませんでした。
 昭和になり、先賢者の尊い意志と、流域住民の強い願いを実現するため、国や県が毒水排除をめざす努力を続けています。
 この碑は、玉川毒水排除に、私財を投じ、身命を捧げた先賢者の偉業をたたえ、永く後世に伝えようと昭和十三年に仙北教育会が建立し、その後大曲仙北校長会が引き継ぎ現在に至っています。
    昭和六十二年十月十七日    大曲仙北校長会
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