萬松寺のシダレザクラ(しだれ桜)大仙市
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萬松寺正面側より南に面した裏側のほうが日当たりが良いので裏側からの枝垂桜がお勧めです。
萬松寺のシダレザクラ(しだれ桜) 2014/04/29
萬松寺の枝垂桜はエドヒガンザクラなので開花時は紅色の花です。満開になるにしたがって紅色が薄くなり、散り際の満開には純白になります。
今年は青空をバックに薄紅色の枝垂桜に巡り合えました。



萬松寺のシダレザクラ(しだれ桜) 2014/04/29



萬松寺のシダレザクラ(しだれ桜) 2012/05/01



境福山萬松寺山門 2011/05/07



萬松寺のシダレザクラ(しだれ桜) 2011/02/27



 2012/10/09
お地蔵様の右手は戊辰戦役佐土原藩士戦没者慰霊碑なのですが、左手の戊辰戦役無縁仏慰霊碑が気になり裏面の説明を読んで、思わず一礼いたしました。幕府軍庄内藩士の慰霊碑でした。



 
 戊辰戦役無縁仏慰霊碑    戊辰戦役佐土原藩士戦没者慰霊碑



 戊辰戦役無縁仏慰霊碑の裏面



 戊辰戦争説明看板



萬松寺のシダレザクラ説明看板



 萬松寺のシダレザクラ(しだれ桜) 2011/05/08
見ごろになったのは5/5でした。6日、7日と日参して撮影してみたのですが・・・ 


   萬松寺のシダレザクラ説明看板から引用
町指定天然記念物 萬松寺のシダレザクラ
 萬松寺の伝承によると「戊辰の役(慶応4年1868年)の戦禍で境内のシダレザクラが消失した。そのあと株元より3本の萌木があり、それを1本に束ねて成育させた。その成長したものが現在の樹木である。」という。これによると、現在のシダレザクラの樹齢は約130年くらいになるということになる。
 根回りは約5.0mあり、協和町のシダレザクラでは有数の巨木である。


   戊辰戦役無縁仏慰霊碑文から引用
 境岸館2番地一帯は戊辰戦役の激戦地で幕府軍庄内藩の陣地となり、萬松寺の官軍と対峙したが憐れ境村での戦死者は53名と記されている。埋葬されたあとに塚を建て無縁仏を弔った。細川家はこの地に居を構えて三代、この無縁仏を守り朝夕水を上げ供物して弔ってきたが、平成2年9月3日擁壁工事のため川に欠落することとなり萬松寺住職とこれを憂え、無縁塚の石片をこの寺内に移して慰霊碑を建てることとなった。
 ここに無縁塚移転の由来を記し122年前の往時を偲び、諸英霊の冥福を祈るばかりである。
      平成2年唐松岳紅葉深き日


    戊辰戦争説明看板から引用
戊辰戦争 〜境・上淀川戦線の戦い〜
 慶応4年(1868)1月、戊辰戦争は鳥羽・伏見の戦いに始まり、上野、北越戦争を経て東北に及んだ。
 鳥羽・伏見の戦いのあと会津藩は新政府から朝敵の汚名を着せられ、奥羽列藩はこれを救済すべく同年5月に奥羽列藩同盟を結ぶこととなる。そのあと、秋田藩は奥羽列藩同盟を離脱し、新政府に加担したことから同盟軍の攻撃を受けることとなった。同盟軍の攻撃を受けた新政府軍は久保田城下南、約30キロメートル(境村)にまで後退、最後の陣地・上淀川戦線を構築した。
 最後の砦となった境村には秋田藩兵とともに薩摩、佐土原、島原、小倉、筑前、長州、因幡、新庄などの藩兵約200名がとどまり警備にあたった。同年9月15日午前、同盟軍(庄内軍)は岩坂下川と唐松神社裏山から新政府軍を攻略、大混乱のあと境村は昼過ぎまでに焼け野原と化した。
 午後に新政府軍の援軍が到着、庄内軍は上淀川村まで後退、小康状態に入った。15日夜庄内軍は夜を徹して撤退、翌16日には新政府軍による討伐戦が行われ、秋田藩最後の戊辰戦争は終わった。
 この戦いで両軍は新政府軍、庄内軍あわせて111名(秋田藩22名、薩摩藩2名、佐土原藩8名、福岡藩4名、長州藩9名、鳥取藩6名、新庄藩4名、庄内藩56名)の犠牲者を出している。戦いの中心になった萬松寺は死体の仮安置所となり、のち新政府軍の遺体の殆どは久保田八橋の官軍墓地全良寺に収められていたが、庄内軍の犠牲者は軍が撤収する際に持ちかえったかは不明である。
 生成4年10月28日、8名の犠牲者を出した宮崎県佐土原町の墓参団が来町し、萬松寺において両町合同の慰霊祭を行うとともに、平成13年6月3日に協和町、佐土原町両町の戊辰戦争を縁とした有縁交流提携が締結された。   大仙市

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