長谷堂城跡公園
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満開のシャガの撮影でAM6時には長谷堂城跡公園にいました。去年の夏に訪れたときにシャガの群生は確認していたのでシャガの花咲くころ来て見たいと思っていました。
駐車してデジカメを準備中に「おはよう〜〜」と散歩中のバッチャマに声をかけられ、しばらく長谷堂城のお話を聞くことになりました。ここは慶長5年(1600)「出羽の関ヶ原合戦」の主戦場で城を守るため山の上から米を滝のように流して堀の水があるように見せかけた昔話を聞くことができたのは幸運でした。
長谷堂城跡公園のシャガ 2008.5.7



長谷堂城跡公園・城山全景 2010.5.10



長谷堂城天守址から山形城を望む 2008.5.12
画面中央の高いビルが霧城セントラルで、そのすぐ向こう側が山形城です。手前から広がる水田の向こう側、緑の帯のあたりが須川で中央の道路は国道348号です。
山形市内の西バイパスから国道348号を白鷹方面へ向って須川を越え高速道路の下をくぐって2つ目の信号を過ぎて長谷堂城跡公園の標識を左折すると長谷堂城跡入口(八幡口)があります。八幡口正面の駐車場に駐車して徒歩での散策になります。八幡口の左手に大手門口、さらに左手に参道の良く整備された観音口があります。



長谷堂城天守址から激戦地を望む 2008.5.12
画面中央からすこし右の電波塔のそばに主水塚があります。画面左端の中ほどに見える山すそが菅沢山です。



主水塚の向こう側に見えるのが城山です 主水塚説明板



長谷堂城跡説明看板



長谷堂城址説明看板



長谷堂城郭復元図



長谷堂城郭復元図の拡大



長谷堂城跡公園説明看板



やまがたし西部マップ


主水塚説明板から引用
 このあたり一帯は、古くは朴ノ木屋敷と呼ばれ、長谷堂合戦のときに最激戦が展開された地である。慶長五年(1600年)九月、米沢より侵攻してきた直江軍と、それを迎え撃つために長谷堂城より出撃した志村勢が死闘をくりひろげ、不世出の剣豪と称された直江の武将上泉主水泰綱が壮烈な討死を遂げたところでもある。
 合戦後、村人たちが主水をはじめ両軍の戦死者役二百余人を手厚く埋葬し、その土墳を主水塚と名付けて、連綿と供養を続けてきた跡である。


長谷堂城跡説明看板から引用
 ここ長谷堂城跡は、山形城の西南約七キロに位置し、標高227メートル、比高約85メートルの独立丘陵に築かれた山城で、古くから天然の要害の地であった。
 この地に城砦が築かれた時期は明らかではないが、永正11年(1515)置賜の伊達稙宗軍に一時占拠されたという文献が残されており、少なくともそれ以前であったと考えられている。
 その後、最上領西南の守りとして、本沢川から導水して深堀をめぐらし、土塁を築く等強固な城砦に整備された。
 慶長5年(1600)「出羽の関ヶ原合戦」といわれた攻防戦があり、全国きっての智将、会津の上杉景勝の家老直江山城守兼続が、山形の最上義光を攻めた合戦の折、最上軍の将、志村伊豆守光安が長谷堂城に拠って、二万数千の大軍の猛攻撃から、半月間にわたって凌ぎ城を守りきった。
 このことから、長谷堂城は「難攻不落」として戦史に残ることになる。
 戦後、光安は加増され庄内酒田の亀ヶ崎城主となり、その後、成沢城から坂紀伊守光秀が移封され、長谷堂城下の整備に尽くした。元和2年(1616)光秀の没後、光重が後を継いだが、元和8年(1622)最上家改易と同時に廃城となった。
 山形市の調査により、中世の城郭跡としてこれだけの虎口や曲輪の跡が残されているのは珍しく、学術的・文化的価値の高い史跡であることが明らかにされている。
   平成16年11月吉日  山形市
               本沢郷土研究会


長谷堂城址説明看板から引用
・・・最も激しい攻防戦は、15日、24日、29日で、直江軍は上泉主水、岩井備中、松本杢之助等の猛将が討死して惨敗する。そして、29日の夜半、直江は関ヶ原敗報を受けて長谷堂城から撤退した。・・・


長谷堂城郭復元図の拡大から引用
上泉主水、朴の木屋敷で討死
(撤退のとき菅沢で自刃するとも云う)主水軍・菅沢山にあり。
松本杢之助、西向の深田で討死
岩井備中、八幡崎で討死
松本、岩田、共に朴の木屋敷に葬る。


長谷堂城跡公園説明看板 から引用
長谷堂城は山形盆地の南西端に位置する、麓からの比高差が約85メートルの城山と呼ばれる独立丘陵に築城されています。一番高い部分に主郭があり、その下方に幾段もの平坦な曲輪が造成され、間を縫うように通路が造られています。南は本沢川が天然の堀の役割を果し、西から北端を廻り東側にかけては、一部二重の水堀と土塁が廻っていました。
現在、土塁は失われていますが、水堀の一部は水路などとして残っています。内側の水堀と土塁は内町・西向地区を、外堀は出倉地区を包んで、城郭と町場の双方を防衛するような構造になっていました。
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